妖怪になんかようかい?

妖怪、幽霊、怪奇現象、科学的に証明できないこれらの事象は特番などでよく取り上げられます。

 

その中でも妖怪に関して、日本では古来よりその存在が伝承や昔話として語り継がれています。

私も小さい頃に妖怪を題材にした映像作品や物語にビビりまくって父親の背中に隠れた思い出があります。

 

しかし、大人になってからは忙しい日々の中で愉快な妖怪がいたらいいなと思うことも多い今日この頃。

 

そこで科学的に証明できない妖怪の存在を様々な角度から科学的に考察してみようと思います。

 

私は妖怪が実在するのかしないのかを考えるのであれば実在すると言うのが答えだと思っています。

 

実在するといっても、本当に子泣きじじいやろくろっ首などの"人の形をした人ではない生き物"がいるという意味ではありません。

 

妖怪と呼ばれた人々が居る、という意味です。

 

妖怪と呼ばれた人達

まず妖怪辞典などのビジュアルを見る限り真っ先に思い浮かぶのは奇形でしょうか。

 

1つ目小僧などは奇形の子供が捨てられ、幼くして仏門に入ったのではないかと思っています。

 

ぬらりひょんに関しても恐らく頭部奇形の放浪人である可能性が高そうです。

 

見越し入道は骨端軟骨閉鎖前の成長ホルモン過剰による巨人症。

その他小鬼、子泣きじじいは小人症と言った所でしょう。

 

奇形以外であれば、精神錯乱、認知症発達障害の類でしょうか。

 

呪われた、狐に憑かれたと言った怪奇は大方脳の疾患で説明がつきそうです。

 

現代でも電車の中で急に叫び出すおじさんやヒステリックに叫ぶおばさんはいますが、時代が違えば確実に狐憑きとして地下牢に閉じ込められていたと思います。

 

 

人と違う見た目だから人では無い何かとして、妖怪というカテゴリに入れられていた可能性は大いにあります。

 

日本ではありませんが、

お腹の中で双子のうちの1人がもう1人の体に合体してしまい、腹部から手や足がワンセットずつ生えた状態で生まれてきた子供が神として崇められたという話を聞いたことがあります。

 

原因が分からない場合に、その他大勢と違う人間を人間と認識しないのは万国共通なのかもしれません。

 

次は妖怪の性質に目を向けていきましょう。

 

妖怪の性質

妖怪の性質としては、影に消えていく、見える人と見えない人がいる(子供には見えて大人には見えないなど)、などが挙げられます。

 

影に消えていく、というのは、

人と違うということで社会生活から押し出されたが故に、文字通り日陰者としての人生を歩むことになったと考えられるでしょう。

 

表の通りを歩けない。

人の少ないところでなければ石を投げられる。

 

そういった理由から移動する際に人通りの少ない影を選んでいたのでは無いでしょうか。

 

光を歩く人間が影を歩く人間に見向きもしないのはいつの時代も同じこと。

光しか見ていない人間にとっては影を歩く人間は自分の世界から消えたも同然なのでしょう。

 

見える人と見えない人がいる、という性質に関しても同じようなことが言えます。

 

見えないのではなく、見ないふりをしている。

そう考えると色々と辻褄が合ってきます。

 

「目が合えば物乞いをされるかもしれない。」

「話しているところを見られたら自分もおかしいと思われるのでは無いか。」

 

こういった意識は、次第に規格から外れたものを無いものとして扱うということに繋がります。

 

しかし子供は純粋です。

 

目に入ったものが全てです。

道端にいる足のないホームレスもまじまじと見ていきます。

うずくまって寝ている人がいれば近付いて行きます。

 

道端のホームレス側からすれば普段はその存在を亡き者にされているが為に、「私のことが見えるのか、」となるわけです。

 

大きくなるにつれて妖怪が見えなくなるのは

物理的な視認が出来なくなるのではなく、社会的に人という認識から外すようになるということなのではないでしょうか。

 

結局のところ妖怪って?

纏めると、今よりも疾患についての究明がなされていなかった時代において、人と違う見た目、精神状態は、その不気味さと割合の低さを鑑みると社会から隔離するに十分足るものであったと考えられます。

 

ことさら奇形に関して言えば、明らかに健常者より不便そうであったり見た目が悪い場合、それが自分にも起こりうると考えたくないのは人の性です。

 

この考え方は、現代では差別的に映るかも知れません。

しかしそれは、私たちが多くの疾患についての科学的根拠が解明された時代を生きているからこそ言えることであり、

医療水準が低い状態においては頭ごなしに否定するべき考え方ではありません。

 

例えば感染症による疾患があった場合、その人に近付かないことは自分の身を守ることに繋がるわけで、感染者を村八分にすることは理にかなっていると言えてしまうのです。

 

新型コロナウイルスの蔓延する昨今でも、感染者を物理的に隔離することでさらなる感染が抑えられることは証明されています。

 

 

差別は良くないという認識が生まれるのは奇形や精神疾患発達障害などが感染症のように人から人へ伝播しないことが自明であるからこそなのです。

 

疾患を含めて多様性として認め、全員が社会に参画できることは、科学的な原因の究明や長きに渡る倫理教育の賜物といえるでしょう。

 

小説の中で「現代で妖怪が少なくなったのは街灯が設置されて暗闇が少なくなったからである。」と書かれていることがあります。

 

しかし差別云々の話で言えば、暗闇は良い意味で少なくなったのかもしれません。

妖怪は未知のものではなく、単なる個性として広く世に知れ渡ったのではないでしょうか。

 

最後に

昨今物議を醸している反ワクチン、アンチサイエンスの方々を見てもわかるように、人間というのは未知のものに対して抵抗がある生き物なのでしょう。

 

有用なものを有用なものとして扱い、論理的に物事を考える。

 

現代ではこれができる人が人間扱いされて然るべきです。

個人的な見解が大分入ってきますが、根拠もないのに自分に馴染みのないものを否定しにかかるのは阿呆のすることです。

 

様々な情報が錯綜する今の時代に人間扱いされるためには、義務教育を基礎とする高等教育が大切になってくるでしょう。

 

 

さて、私もこんな駄文を連ねている暇があればスマホを置いて勉強するとしましょうか。

妖怪を追い求めて妖怪になってしまっては意味がありませんから、、、。